小説『わたしの中の彼へ』二回目

小説『わたしの中の彼へ』


彼の書く小説のタイトル『わたしの中の彼へ』です。
半世紀来ほど前の女流前衛作家のエッセイに、確かこんなタイトルがありました。
でもこれはエッセイではなく、わたしの彼が書いた小説です。

今回はその二回目です。

 

第二話

 

「ねえ、ソータ」

楓子がわたしの名を呼んだ。
だからわたしは顔を出した。
返事を待たないで彼女は言葉をつないでいた。

「わたし、思うの。ほんとうに、そう思っているの」

どうやらこれはモノローグらしい。
夢を見ている場合と同じで独り言に付き合ってはいけない。
話しかけるとその人は夢の世界から抜け出れなくなる。


そういわれている。
わたしの場合は、危険が満ち溢れていることになる。
楓子が眠り続けたなら、わたしはこのまま戻れないだろう。


それから、まだある。

一番心配なのは、わたしの存在が消滅することだ。
わたしと楓子の関係は、普通ならばあり得ないだろう。
話したところで誰も信じないし、見たところで卒倒するのがおちだ。

出なければ「トリック」とみなすことでおわる。

そうなのだ。イレギュラーの関係性はいつかは清算されて当たり前なのだ。

 

わたしは、とりあえず、現実を、このように把握した。

楓子は覚醒しており、正気を失ったわけではない。

ただ、彼女はわたしがここにいるとは気が付いていない。
わたしの名を読んだということさえ気づいていないのだ。

これでは、夢の中のたわごとと同じである。


話しかけたり相槌をうったりしたら、

本当に彼女は夢想の世界に閉じ込められてしまうかもしれない。

だからわたしは黙って彼女のつぶやきに耳を貸すだけである。

 

「わたしの中にいるなんて、信じられる。誰も信じてくれないし、
それよりも、ソータは、わたしの中の真っ暗で、音もなく、身動きできない状態で、
意識も失くした日々を過ごしているなんて、そんな可哀想なこと、わたし耐えられない」

 

どうやら泣いている。
楓子が泣く。しかも、わたしの今の境遇に同情して…。
これほど信じられないことはない。


誤解されるといけないので大急ぎで付け足すが、彼女が薄情だとか、身勝手だとか、
確かに時折そう思うこともあるが、彼女の本当のところが「薄情」「身勝手」だとは思わない。

だいたい、わたしがこうして彼女に中にあり、自分の意志で顔を出したりできない現状は、わたしが望んだことではないように、彼女が望んだことでもない。

イカのような塊を股の間に挟んで歩く姿を想像してみてほしい。
男に置き換えれば簡単だ。まず、ズボンをはくことができない。
なんとなく連想できるのは、若いころ、あれは夏のことだったが、股間が夜の間ずっと痛んだことがある。
朝、何気にさわってみたらキンタマがとんでもなく大きくなっていた。

恐る恐る指で触れると、キーンと痛みが走り、頭のてっぺんまで痛みの矢が飛んでいく。
そのまま飛び出して去ってしまえばいいが、頭頂部ではねかえって戻ってくる。
とんでもない痛みが体の中で何度もはねかえり、痛みは全身を駆け巡る。

 

その痛みに耐えながら、指先でキンタマを探ると、あろうことか、わたしの金玉は三つある。
女性は知らないかもしれないが、男のフグリの中に納まっているキンタマは二つ。
それが一つ増えた。二つ分しか空間のないところにある朝気が付いたらもうひとつ増えていた。


戦国時代の一夜城ではあるまいし、一夜城ならばキンタマが三つになることはない。

あんな小さな金玉一つ増えただけで死ぬほどの苦痛である。
それに比べたら、楓子の場合は男の頭一つがまたぐらに出てくるのだ。
お尻からなら、少し硬めのうんちが出て来たと思えばいいが、
おまんこからでてくるのは、これはもう出産と同じことだ。

 

わたしは楓子の述懐を聞きながら、知らず涙を流していた。
普通なら涙は瞳から頬を伝って首へと流れ落ちるのだが、
今ではわたしの顔は上下が逆さまだ。
涙は眉毛を伝って額へと流れる。これでは感傷に浸るわけにはいかぬ。
額の紙の生え際がかゆい。かゆくてもどうしようもない。


わたしのどうしようもない欠点は、顔がかゆくでも掻くことかできないということだ。

首はあるが、手もなければ足もない。なにしろ胴もない。
手も足も出ないどころか、何にもない。
移動すらできない。
わたしが移動するというのは、楓子の移動のことを云う。

 

などと考えていたら、口に中に塩辛いものが溢れて来た。
口ではない、顎からそれは伝わってきた。
視界が赤く染まる。
鉄分の匂いがする。

 

あっ。

 

わたしが声を出した時、楓子も気が付いて同じ音を発した。
そうして下腹に手を伸ばしてわたしの顔に触れた。
もう一度楓子は声を出した。
あっ。

そうしてわたしに気が付いた。
気が付いてからさらに慌てだした。

 

経血だった。

 

「ごめん。ソータ。気が付かなかった」
気が付いていたにしろ、経血が出るのは仕方がない。
そうしてそれは楓子の意志ではない。
わたしは目を閉じた。

状況を瞬時に判断した楓子は軽く叫んだ。
「ソータ、許すは」

この言葉でわたしは奥に引っ込んだ。
そうして、この出来事を忘れてしまうだろう。
視界が赤から闇へと変化したとたん、わたしの意識は漆黒の世界になった。